6月の高野山③ 壇上伽藍

高野山 壇上伽藍

壇上伽藍の手水舎(ちょうずや)の横でそっと休憩をされているお坊様。何を考えていらっしゃるのでしょうか。空海もかつては高野山で生活をし、何を考えて、日々過ごされていたのでしょうか。。。タイムスリップできるのなら、空海がいた時代に飛んでみたい。

高野山が大好き、管理人の奥野です。高野山にまつわる景色や風景をもっとリアルにお届けしたいので、一眼レフの勉強を始めるかもしれません。写真のレベルアップをご期待くださいませ。

さて、前回が入口までで終わってしまったので、続きをお届けいたします。

6月の高野山の続きです。千手院前から壇上伽藍に入るまでをご紹介しております。6月は新緑が綺麗で緑に癒されますねぇ~

三昧堂(さんまいどう)

本尊 金剛界大日如来 延長六年(928)当山第六座主済高師が創建せられたもので座主常に理趣三昧を修せられていたのでこの名がある。その後西行法師これに修復を加え常に行法をされていたので西行堂とも云う。堂看板より抜粋

高野山 壇上伽藍 三昧堂

東塔の手前にとても大切な廟があります。空海の甥であり、最愛の弟子である智泉の廟です。智泉は若いながらも空海よりも先に病で亡くなり、智泉廟(写真無し)はまるで空海に寄り添うように壇上伽藍に置かれているのです。

亡くなった智泉のために詠った空海の詩がまた悲しい。

いつもどんなところでも影のように、手足のようにいた

自分が飢えている時は、おまも飢え

自分が楽しい時は、おまえも一緒に楽しんだ

孔子やブッダのそばを離れなかった弟子

おまえはまさにそのような(最愛で一番近い)存在だった

これほどに重要な存在の弟子の廟をスルーしてしまって、まったく勉強不足でふがいないですが、次回はちゃんと手を合わせに行きたいと思います。

大会堂(だいえどう)

高野山 壇上伽藍 大会堂

鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇上に移し、蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂

国宝 不動堂(ふどうどう)

高野山 壇上伽藍 不動堂(ふどうどう)

言い伝えによれば建久八年(1197)鳥羽天皇の皇女院の御願により行勝上人がこの堂を建てたということである。鎌倉時代の和様建築であって、それ以前の住宅建築の様式を仏堂建築に応用したものである。正確な建築年代は不明であるが、仏壇の勾欄や羽目板の格狭間の形などから、鎌倉時代後期と考えられる。

内陣の後に仏壇があり、来迎柱の間に板壁をつける。屋根の勾配のゆるい桧川葺で、平安時代の寝殿造の面影をのこす。

高野山 壇上伽藍 不動堂

この不動堂の横に広がる池の景色が良かったです。

高野山 壇上伽藍 蓮池(はすいけ)

この池、蓮池(はすいけ)というのですが、今は蓮は見当たりません。昭和の頃までは咲き誇っていたそうですが、見てみたかったですね。残念です。

愛染堂(あいぜんどう)

高野山 壇上伽藍 愛染堂(あいぜんどう)

建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。

愛染堂の左隣が根本大塔なのですが、その間に高野山町石道の1町があります。ここから、奥之院まで36町石。なので、約4kmの行程です。町石道は根本大塔から奥之院ルートと慈尊院ルートがあります。慈尊院までは180町石ありますので、およそ20kmですね!

昔の人が行きも帰りも迷うことなくこの山深い高野山を行き来できたのはこの町石のおかげなんでしょうね!

高野山町石道 奥之院ルート

続きは根本大塔からをお届けいたします。

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